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All Material is sourced from UPHYCA

Utsuwa and Utsuwa Migaki |『うつわ』と『うつわみがき』

🔗 Original article in Japanese | 『うつわ』と『うつわみがき』
 

📌 Framing information:

UTSUWA MIGAKI is not a specific ritual, but a way of being conscious. UTSUWA MIGAKI is about living a life that takes care of yourself and keeps you healthy every day.

For UTSUWA USUGI GYO, the daily ritual practice, visit the separate page.

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『うつわ』は、UPHYCAの巫女にとって重要なシンボルのひとつである。

世界には「力の源」があまねく流れ漂っている。

そこには全てがあると言っても良いが、それらは決して目には見えず触ることもできない。

力の源は常に動き続けている。

力が止まり像を結んで初めて「こちら側」の私たちはそれに気付くことができる。

蕩々と流れる源にそっと両手を浸し、掌におさまるだけの水を慎ましく掬ぶ。

これが原初の『うつわ』の情景である。

水を汲む桶、酒を注ぐ杯、食事をつぐ碗。

『うつわ』にも様々な型と役割があれど、宿すものなくしては、どれも等しくただのがらんどうである。がらんどうは虚しげだが、がらんどうであるからこそ、どんなものも宿すことができる可能性に満ちている。

巫女とは『うつわ』そのものである。

『はじめの女神の語るすべ』では、この世に散らばり生まれては消える美しい物語を憶え語るため、はじめのひとが生まれた。ひとは言葉を使い源からひと掬いをとりあげ留める。古より賢い女、魔女、シャーマンと呼ばれた人々は毒と薬、歌と呪文を掬いあげた。

UPHYCAの巫女は皆『よきうつわ』であるため、いかなるときも尽力することを求められる。

『奔放の巫女』のイニシエーションに向け整えられる火の器は、女神より受けた雷を宿し、わたしたちの中に火を顕現させるための『うつわ』、つまり、がらんどうの『場』を象徴している。

しぐさのうつわは、原初の『うつわ』の情景そのものである。

子宮はUPHYCAの巫女が生まれながらに『うつわ』である証であり、UPHYCAが肉体的に女性として生まれて来たもののみのグループである理由である。実際の妊娠を望むか否か、可能か不可能か、それらは関係がない。

性的嗜好も、性自認も、関係ない。

望む望まぬに関わらず子宮という器官を持ち、それぞれにそれと付き合い、他者から「女」と呼ばれながら今日まで生きてきたという出来事それ自体が、ひとつの巫女修行である。

『よきうつわ』たるよう努めるとはつまり、肉体を健康に維持することであり、宿した命を育む良き心をもった存在でありつづける努力を惜しまない、ということである。

そのためには、まず自分を愛する術を知らねばならない。

自分を軽んじるものは自分の『うつわ』に注がれたものを蔑ろに扱いたがる。

それがどれほど素晴らしいものであったとしても、ひとたび自身の『うつわ』にみちるとそれを見下げるような態度をとる。自らの『うつわ』に宿したものを、とうとみ、ことほぎ、いつくしむことができるよう、巫女は自分を正しく愛することを学ぶべきである。

その身にひとたび宿してしまえば、たちどころに「ひとつ」になる力。

これこそが『うつわ』の力である。

『うつわ』にとって、何かを宿している最中は、その宿しているもののすべてと、それを取り囲むすべてを含めて等しく自分になる。

しかし「宿したもの」に成り代わってしまうのではない。

『うつわ』は『満たされたうつわ』となった後、宿したものを手放し、またがらんどうに戻る。

『むすび』と『ほどき』の両方を含めて『うつわ』務めであることを心得ること。

毎日使うマグカップを想像して欲しい。

そこには朝はコーヒー、昼には麦茶、夜にはハーブティー、時にはワインが注がれる。

寝ぼけ眼にお湯を沸かしコーヒーを入れる時に、底に昨夜のワインが少し残っていたらどうするだろう。あなたはおそらくカップを流しに持ってゆき、水とスポンジで濯いで綺麗さっぱりワインの気配を消し去ってからコーヒーを入れたいと思うはずだ。

『うつわ』も同じだ。

宿し手放したあとはさっぱりと禊ぎ、新たな宿しに備ねばならない。

源の流れ、はじめのひめの歌、あちらの世界。

呼び方は様々だが、それはとても魅惑的な場所だ。

光に満ち深みはどこまでも暗く、恐ろしくも美しい、全てが許された場所。

人はそこに指先をかすめただけでも、まるで自分を特別で選ばれたもののように誤解する。

この世界を知らぬものは愚かで惨めだなどいう考えを持つものもいるかもしれない。

こちらの世界の全てを捨てて、あちらの世界に浸りきり生涯を過ごす、それを望むものもいるだろう。しかし、湖の底に沈んだ『うつわ』は、もはや『うつわ』のつとめを果たしていない。

『はざまの女神文様』は、夜の水面に映る月光がほんの一瞬揺らめき描く女神の姿を表している。

こちらの世界から垣間見ることのできた女神の面影は、あちらとこちらの境界だ。『はざまの女神文様』を『かがみ』と呼ぶように、UPHYCAの巫女は境界に佇むものであろうと努める。

『よきうつわ』はこちらの世界をよく知り、愛着を持ち、大地に根ざさねばならない。

そのために、まずは世界と巫女をつなぐ五感をみがき、技を身に着けること。そして少しでも多くの経験を積み、共感の引き出しを多く備えること。自身の心と体で、こちらの世界のあらゆるものに触れ、指でなぞり、物語として身に蓄え、自身の口を使い言葉にして紡ぐこと。これらを継続すること。自分はあらゆるものを満たすに値する『うつわ』であると言い切れるよう、日々気高く振る舞うこと。言い切るに値する実際の肉体と精神の健やかさを維持すること。

それが『おつとめ』の『うつわみがき』の行である。

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