Mariko
Middleton
All Material is sourced from UPHYCA
元比賣?
元比賣の神話
はじめの女神の語るすべ
はじめはこの世に何にもなく、ただ暗闇だけが広がっていた。あるときひとりの女神が目を覚ました。寝ぼけ眼をこすった手から、天の日と月と夢がこぼれ、あくびからは歌が生まれた。 歌は瞬く間にこの世のあめつちいたるところにひびきわたり、星々と草木と獣が生まれた。 草木と獣はこすれあい、香りが生まれてたちこめた。草の実と毛が宙にまい、めくるめく印が生まれた。印はたいへんおしゃべりで、そのおしゃべりから、物語が生まれた。 千も万もの物語が、毎日あぶくのように、生まれては消え、生まれては消えた。 ある時一つのとびきり美しい物語が、「消えたくない」と願った。その願いから、人が生まれた。
はじめの人は夢を見て、歌を歌い、草木と獣と戯れて、印を描きながら、物語を大切に覚えた。 はじめの人はひとつたりとも失うまいと、新しい物語が生まれるたびにその身にしかと刻みつけたが、はてもし自分が死ねばなにひとつ、残らぬのではと思い立ち、子を産み増やすことにした。増えた子らは連れ立って、笑いさざめき、地を転げ回り、この世によろこびが生まれた。はじめの人は子らをあつめ、夢と歌と印と物語を伝えた。このとき言葉がうまれた。
このようにして、人の口から口へと伝えられる歌と印はなんとも愛らしく、物語には心惹かれる響きがあり、女神はこれをたいへん好んだ。好むあまり、たびたび、人の子のふりをして輪に加わっては、うっとり聞き惚れたり、共に印を描いては、よろこんだりした。
けれども人らには、全てを伝え続けることはできなかった。人は忘れてしまうのだ。大切な夢や歌や物語を失うたびに、人らは悲しんだ。悲しむ人らを見て、女神は一粒の涙を流した。その涙からは、まじないが生まれた。
忘れる人らを見るたびに、女神は涙を流したが、とうとう涙は止まる暇がなくなり、雨がうまれた。 千も万もの朝と夜の間、雨はやまずに振り続いた。 人らは雨をしのごうと、穴の中に隠れて暮らすようになった。 女神は人らが突然いなくなったので、あちこち探し回った。 長雨の間、真っ暗な穴の中に暮らした人々は、次第に印をよまず、歌わなくなってしまった。たくさんの印と歌が、このとき失われた。
人らの口伝えを恋しく思う女神は、来る日も来る日も探し続けた。探し惑う女神の爪先はいかづちとなり、呼び声は轟となった。山に突き刺さる千も万ものいかづちに、人らはおそれおののいて、ますます、穴の奥深くへと潜ってしまった。
女神はじりじりと怒りに震えながら天へと伸び上がり、力の限り、なきいさちった。 豊かな髪は逆立って、天の日も星も月も、すべてが黒く覆われた。 女神の叫びに地は裏返り、石は空を飛び、目と鼻と口からは、赤く輝く燃える土が、水のように溢れ出た。
昼も夜もないこの世を、女神はたった一人でのたうち彷徨っていた。どれだけの時が経ったか、ついに、岩陰に、動く影をみつけた。 人らであった。 女神は血走る眼をかっと見開き、すさまじいはやさで這い寄った。 けれどそこにいた人らの様子は、もう昔とはずいぶん違っていた。 痩せ細り、縮こまり、笑わず、がらんどうの穴のような眼をして、ただ怯えて震えている人らはもう随分前に、夢を見ることも、自分たちが生まれた訳も、すっかり忘れてしまっていたのだった。すべての夢と物語は、失われていた。
女神は地を這うのをやめた。
そしてこう語った。
夢を見たければ、私の腹で、蘇りの水を醸すといい。
歌を忘れた時は、私の頭に、聖なる地の火を灯すといい。
物語を思い出したければ、山や海から私を集め、火と水で混ぜひとつにし、皆で共に食べるといい。
語り終えると女神は、自分の身体を細かく砕き、ふうとひと吹きに、この世のあめつちいたるところに散りばめた。
人らは女神のいうようにした。 するとたちどころに、暗い穴の中は真昼のごとくぱっと明るくなり、煮炊きした海山の幸の、良い香りがたちこめた。たまらず獣は鼻を鳴らし、子らは獣を真似て次々に遠吠えた。狭い穴の中に笑い声がこだました。酒を注いだ器がまわり、口に含んだ誰からともなく、手を打ち揺らし、舞い踊りがはじまった。器がぐるりと巡った頃には、皆が同じ歌を歌っていた。穴の壁には千も万もの踊る影が揺れていた。今日までに死んだ、すべての草木、すべての獣、そしてすべての人らがそこに集っていた。影は人らに、失われた物語を伝えた。人は地の火の土をすくいとり、指で壁の影をなぞった。もう決して忘れないように。こうして絵がうまれた。
いつのまにか雨はやみ、山には大きな月がかかっていた。
このようにして、人らは女神から、大事なすべを授かった。たとえすべてを忘れてしまったとしても、このすべさえ、失わなければ、いつでも望むときに、私たちは女神と繋がることができるのだ。